北海道厚真町


厚真町について


米づくりの苦闘

現在でこそ、米どころとなっている厚真ではあるが、ここまで来るには先人の想像を絶する苦闘の歴史があった。

開拓当初は漁業、林業に頼るところが大きく、また、北海道の気候の特殊性がなかなか実りを与えてくれなかったこともあり、厚真の産業の中で農業の占める割合はかなり低かった。

しかし、開拓者のほとんどは東北、北陸地方からの入植者だったので、稲作に対する愛着も人一倍強く、また、先に入植した人たちが色々と試した結果、厚真の大地はすべてにおいて畑作より水田に向いているという結論が出ていた。

明治33年、字当麻内の佐羽良助が家の壁を塗った残りの粘土を前の水田に捨てた。翌年何気なくそこに作付けしたところ、他の場所に比べ抜群に成育がよかった。これが、農業史上画期的な「客土法」の発見の瞬間である。

これに勢いを得、関係者は用水、かんがい、排水の通流問題に全力を尽した。

稲作の品種改良も早くから着目され、積極的に取り組み、幅田糯、当麻内近成種など優良な品種が産出している。

このような経過があり、厚真の農業は次第に、一産業としての力強さを増してきたが、急激な成長を遂げることになったのは、第一次世界大戦を境にしてからである。ヨーロッパ各地は戦火に包まれ、食糧不足に追い込まれた。日本に対する食料の需要が急速に高まった。特に北海道農業は積極的に雑穀の生産を進めた。 価格は10倍以上に跳ね上がり、なかには金が入りすぎて気が狂うものまで出たという。

しかし、戦争景気はしょせん一時的なものに過ぎず、終戦と同時に各国の農業が復活すると北海道の雑穀は買い取り手がなくなり、戦争前の価格以下に買い叩かれることになった。その上、極度の乱作により土地の力は衰え、それ以後の収穫を激減させた。しかし、一方で小作農の多くが自立農に転換し、農業の独立を果たした点で大きな意味があった。

米、雑穀景気に踊っていたころ、この利益を狙った米穀商人が肥料の貸し付けとその代価としての米、雑穀の買い付けで暴利を上げていた。

農会の指導により、有限責任厚真村信用、販売、購買、利用組合として産業組合が誕生した。当初は村民の理解が得られず苦労の連続であったが、昭和5年の農作物大暴落、6,7年の冷害凶作、9,10年の不作などにより、農家が経営的に困難な時期を通じて、組合員の認識が高まり、農業の近代化への足がかりに一役かった。


厚真町について

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